「おいよ、何だねこりゃ」 そう、翼が話し掛けて来たのは、休日の前の夜だった。何を思ったのか、翼は納戸の中を漁っていた。夕食の直後だと言うのに元気な奴だ。汗みずくになる事は予想していたが、まあ、風呂の前だから何も言わなかった。疲労はお前だけ感じるが良い。 納戸に入った直後、二、三言葉を交わしてから軽く瞑想していた我に、翼は声を掛けた。丁度、この間の練習試合を思い出していた時だ。 で、何だ? 「ほらこれ。かっこ良くない?」 視覚に集中すると、古びた鞄が見える。と言うより、トランクだな。色褪せた革が年月を感じさせる、まあアンティークの一歩手前、古き良き時代の遺物と言った風情だ。これがどうした? 「だーかーらー、かっこ良くないって言ってんじゃん? 耳付いてますかー?」 癇に障る言い方だが、冗句に文句を返しても仕方はあるまい。ああ、中々に良い代物ではないか。嫌いではないぞ。 「やっぱそう思う?」 ああ。お忍びで旅行に行く、長い黒髪が似合う線の細い令嬢ならば似合うだろう。 「或いは推理小説の、被害者が入っているとかね」 子供しか入らんだろう。側面はポスターより狭く、幅は私の親指と人差し指で充分測れるほどだ。旅行に持って行くとしても、余り遠出は出来ないな。良くて二泊三日だ。 「アズールは充分入るね。だからさ、明日出掛けない?」 話の前後が繋がらない上に説明が足らないのは今に始まった事ではないが、好い加減我に補足させるのは止めて欲しい。 「明日天気良さそうだしさ。遠出しようよ。二人でさ」 そう言って、翼は鞄を持って立ち上がり、納戸から出た。そして自室に戻り、鞄を開き、正しく“そこら辺”から“手当たり次第に”物を詰め込んで行った。 「時計要るかな。要らないかな。要る――駄目だわ。時間なんか気にしてたら、立派な大人にはなれない」 「あっ、こんな所にチョコが! じいさんのだ! 食べようと思って忘れてた! 何か白くなってるから捨てよ」 「小夜(さよ)ちゃんは入らないよねー。アズールはスリムねー。ってかチビねー」 「下着は――よし、入れよう。何があるか判らないのが冒険だもの」 何時から冒険になったのだろう。転んで下着を汚すなど、考えられないな。 しかし、翼には最早、我の意見を聞くつもりもないようだった。いつもの事ではあるし、我もいつも通りに生返事で応えよう。 結局、入浴はそれから二時間後になった。 うー! 悦びなさい、ピーカンよ! 「その言い方も、好い加減死語だと思うが」 ちょっとは空気読んでよ。寂しくなるからっ。 「ん――そうだな。晴れで良かったな」 そう、雅は呆れたように言うけど、嘘じゃないのよねー。嘘を吐くのはアタシの役目だし。 でも本当、晴れって最高よね。雨も嫌いじゃないけど、さあ出掛けようって思ってる日――つまり休日ね――が雨だと、心底つまらないものよ。アズール達の手入れぐらいしかやる事ないしさ。 うーん、誰か天気を操る機械とか発明してくれないかしら。そしたらアタシ、世界史のある火曜日と木曜日、毎週台風にして上げるわ。あーあ、近所に天才発明家でもいないものかしら。 「我だったら火曜日と木曜日は絶対に晴れにしてやる。有難く思え」 雅の訳わかんない言葉は聞き流して、いざ出発! 小夜ちゃんの入ったケースを背負って、昨日見つけた鞄をリルの荷台に括り付けて、キーを回して走り出す! この瞬間、アタシは水の旅人になったわ。 「水源にでも行くのか?」 それ、採用。 「何――隣町に行くのではないのか?」 冗談よ。って言っても、水源に行くのは冗談じゃないわ。昨日、雅が寝ちゃった後にさ、考え直したの。どうせ旅なら、行った事のない所に行こうって。 「それで、水源か」 何だか、やれやれって感じだけど、対して文句言わないのは良い事よね。ま、雅はリルを運転出来ないから今更、なのかもしれないけど。でも、絶対損はさせないからね。 だって、アタシは損しないって確信してるから。 それから三時間、我らは走り続けた。住宅街を後にし、田畑の似合う田舎道を抜ける。初夏の風は、滲む汗を乾かし、快感を与えてくれた。 途中、二度ほど休憩を取り、互いの相棒をチェックした。いつも思うが、翼のアズールは良いのに、我の小夜は人目を気にしなければならんのが面倒だな。いや、お前が悪いのではない、小夜。他の誰も悪くは――ない。だが、気にしなければならん。むぅ、面倒の極みだな。 そして、それ以外の面倒事を翼に任せ、五感で自然を感じる事暫く、我らは目的地に到着した。 水源――否、温泉に。 翼の言い分では、「温かい水の水源」だと言うが、何か間違っている気がしないでもない。だが兄御前、そんな理屈は、久方振りの温泉の前には脆くも崩れ去るものだ。 温泉と言うものは良い物だ。湯船では再現出来ない、天然の産湯は、否応なく我らに安らぎを与えてくれる。湯脈が豊富なこの地に生まれた事を、これほど感謝出来る場所はない。 温泉は、脱衣所と垣根のみが人工の、無人の湯治場だった。秘湯と言うほどでもないが、時期ゆえか偶然か、我ら以外に客はいなかった。 「見て見て! 貸切よ貸切!」 脱衣所の土間に靴が一足もない事を発見した翼は、大声ではしゃぎ立て、恥も外聞もなく服を脱ぎ散らかした。――待て。 「何よぉ」 小夜はどうする。見た所、ロッカーはないぞ。 「気にすんな」 ちょっと先に谷があったな。アズールを落としたら、二度と拾えないような。 「ごめんなさい」 頭を下げる翼と交代し、小夜の入ったケースからチェーンロックを取り出して辺りを見回すと、剥きだしになった配管があった。取り敢えずはそこで良いだろう、とチェーンロックでケースを固定してから、改めて脱衣を続ける。 ――下着が必要になる冒険とは、この事か? 果たして現れた温泉に、我は正直、感動すら覚えた。 無造作に見えて緻密に計算されて積まれた岩石によって構成された一つの器に、星の血流に温められ、地の栄養を芳醇に含んだ熱水が満ちている。その水面からは常に湯気が生まれ揺蕩い、総てを幻想に思わせていた。 「わー、良いじゃなぁい」 翼でさえも感嘆の声を漏らし、手桶で汗を流してから湯の中へと身を投じる。途端、疲労に満ちた四肢を熱が侵食し、あらゆる毒を拭い去って行った。 「くぁー――最高だわ、これ」 ああ――最高だ。 「兄公がいたら、もう極致よねー」 うむ、それも良いな。 「兄公ー、早く来てー」 「なっ……!?」 とまあ、案の定、雅は超驚いたわ。交代したら面白いかなー、と思ってたら、何かつるっと滑ってお湯の中に沈んじゃったv 「ぷはっ――兄御前が、いるのか……?」 居る訳ないじゃん。 「貴様……」 朝っぱらからリルで来たアタシらと、合流してもないのに鉢合わせも待ち合わせも出来ないわよ。第一、男用の脱衣所の出口、そこにあるでしょ。混浴よ、ここ。 なんてツッコんだら、雅ったら押し黙って口までお湯に浸かっちゃった。この子がここまで油断しちゃうなんて、温泉の魔力って怖いわねぇ。来て良かったわぁ。 「――阿呆が」 可愛い反抗ありがとうv 兄公にも見せてあげたいわねぇ、今のあんたの全部を。 「ああ、お前の銃を全部売り払っても良いのならな」 んー、ちょっと考えさせて。今は、ゆっくり温泉を楽しみましょ。――目を閉じるつもりでそう言ったら、雅も目を閉じてくれた。 もうすぐお昼。お日様が上から降り注ぐ、たった二人の極楽気分。 雅が何を思ってるのか知らないけれど、くるくる回るお湯のような思考を巡らせて。 あの鞄の事を思い出した。 古ぼけたあの鞄に物を出し入れしていたら、ポケットの中から一枚の紙切れが出て来た。ずっと日に当たってなく、余り色褪せてなかったそれには、じーちゃんの名前が書かれてた。 アタシにアズール――銃の格好良さと強さと恐ろしさを伝え、雅に小夜ちゃん――刀の美しさと鋭さと残酷な歴史を教えてくれた、じーちゃんの、新しいお土産。 じーちゃんはあの鞄を持って、どこに行ったのかな。アタシ以上にバイタリティとお金を持ってたじーちゃんだから、日本の裏側まで行った事があるかも知れない。多分、十カ国ぐらいは制覇してるよね。そう言えば昔、「お土産だ」って何かをプレゼントしてくれた時、傍にあの鞄があったかも知れない。いつも、お土産にしか集中してなかったから、覚えてないのよね。 もう、その話を聞けないのは残念だな―― お湯から上がった後、近くの東屋で昼食を取った。適度に火照った身体を、山の涼風が撫で、なかなかに気持ちが良かったな。 翼の拵えた弁当は、様々な具を挟んだサンドイッチで、冷蔵庫の中身をそのまま使ったような彼奴らしい献立であったが、お絞りや熱い緑茶を忘れずにいる辺り、機微と言うものが解って来たようで安心した。 「温泉で、冷えた桃のカクテル飲みたかったんだけどねぇ」 と言っていたが、何の事だろう。「家になかったの」と諦めた理由を透かさず告げていたが、そもそも我らはリルに乗ってきているのだから、例え持ってきたとしても我が止めていた。粗雑さはなかなか直らないらしい。 しかし、町の忙しさから離れ、安穏とした自然に包まれていると、先刻の翼の冗句が現実のものになりはしないか、と思う。 兄御前にも、この空気を伝えたいと――否、共に過ごしたいと、心から思う。 そしてもう一人――今は亡き、かの老人とも。 翼から聞いたが、件の鞄は祖考の遺品らしい。我らが祖考から受け継いだものは数多あるが、これから先の未来に受け継ぐ筈だったものを、翼の気紛れで先取りした、と言う訳だ。 我が小夜の先代の主であり、翼がアズールの師弟らの元所有者たる祖考の、遺品。 彼はあの鞄に、何を入れたのだろう。我らのように衣服や弁当を入れたのだろうか。それとも、災禍の時代を生き抜く為、アズールの師らを隠していたのか。我らを奇異に見ない、有難い存在であった祖考は、同時に解り辛い人間でもあったからな。我の思いも寄らぬものを入れていたとしても何ら不思議はない。 惜しむらくは、その話を聞く事が、最早叶わぬ事だ―― 昼食を終えた後、アタシの提案で、雅は小夜ちゃんと舞った。家以外で抜く事が余りないだけに、雅も全然断らなかった。 初夏の風の中、渾名されただけの無銘の刀と踊るのは、とても気持ちよかった。アタシに剣舞の技術はないけれど、雅と同調して感覚を知るのは楽しい。アズールを撃つのとは全然違う、風に乗る感じ――そんな単純なものじゃないけどね。 そんな事をしてたら、観光客のおじいちゃんおばあちゃんに見つかっちゃったの。普通なら通報されちゃうと思うんだけど、そのおじいちゃんおばあちゃんの中に、剣道をやってる人がいて、雅の腕前を認めちゃったみたいなの。途中で気付いた雅が、きちんと挨拶したのも良かったみたいね。続きをお願いされた上に拍手喝采、おまけにさっきの温泉で混浴って事になっちゃった。 アタシ? アタシは出なかったわ。おじいちゃん達が興味あるのは、今日日剣術を修めてる珍しい女の子な訳だし、雅も普段、剣の事を話せる機会は少ないしね。雅が話してる傍で、温泉の効能をたっぷり満喫させてもらいましたv そして、長い日が陰り始めた頃、リルのハンドルを握りながら、翼が問うて来た。 「ねぇ、雅」 何だ、翼。 「今度はさ、兄公も連れて来ようよ、温泉」 悪くないな。 「うん。別にリルじゃなくてさ、確かバスが出てるのかな。ちょっと割高になるけど」 良いのではないか? お前が払えば。 「何言ってるの、割カンよ。当然でしょ」 何が当然なのかは解らんが、まあ良いだろう。 「お、何か素直ー」 お前の趣旨に付き合うのも悪くない。それに、時間が戻らないのなら、少しでも共に居たいと思ったのだ。 「あらー、何て偶然。アタシも似たような事思ってたわ」 そうか? 「うん。限りある時間、少しでも有効に、楽しく過ごしたいからね」 そうだな。それには、心から賛成する。 「さっすがアタシ達、以心伝心ね。――あっ、一番星よ! ほらほら、あそこ!」 子供のようにはしゃぐ翼に頷きながら、我も心なし、笑みを浮かべた。 なあ、兄御前。我らは短い。あの星に比べたら、まるで一瞬のように儚い存在だ。 だからこそ、その一瞬の刹那を、共に過ごしたい。 祖考に対する思いを、兄御前には抱きたくない。 例えばこのとき、兄御前は何をしているのだろう。何を思って、何を見ているのだろう。 願うのは、それを共にし、共に思い、共に見ることだ。 それが叶うのなら、我はそれだけで、兄御前を何からをも守れると、そう思う―― |